2007/08/29

社会保険庁の組織IQ

組織IQという概念をご存知でしょうか。知能指数IQと同じように、組織の能力を測る概念として組織IQというものがあります。スタンフォード大学を中心とするチームが90年代半ばに開発し、日本には99年に紹介されています。弊社刊行『スマート・カンパニー』(ヘイム メンデルソン 、ヨハネス ジーグラー共著)など、組織IQについて触れている書籍もあります。この概念では、組織の能力はメンバー個人の知識やスキルではなく、組織全体として意思決定の仕組みやルールが整備されているかどうかが大切になってきます。

早稲田大学ビジネススクールの平野雅章教授は経営情報学をご専門とされており、組織IQに関する研究をしています。実にこれがおもしろいのです。組織IQが低い組織はIT投資額が多くても期待した結果が出せない傾向があるというのです。IT投資を実行する前に、まずは組織IQの向上を行わなくてはならないわけですね。
多額のお金をかけて最新設備のITを導入しても、組織IQが低いと運用面で慣れるまでのラーニングカーブがなかなか上がりません。むしろ、組織のパフォーマンスを下げてしまうことすらあるのです。私たちは最先端のテクノロジーを導入すると聞くと、それだけで安心してしまう傾向があります。しかし、実際はそうではないのです。

話は変わりますが、ここのところ社会保険庁に関する問題を耳にする機会が多くあります。ずさんな業務運営についていえば、ここまで組織全体のばらつきをなくせること自体、驚かされます。総じてミスをしている。このような組織のことを「組織IQが低い」というのでしょう。社会保険庁の問題を解決するのなら、年金に関して詳しい人が問題に斬り込んでも抜本的な解決には至らないような気がします。本当に必要なのは意思決定プロセスの改善なのでしょう。今、社会保険庁に必要なのはコンサル担当、マッキンゼーやBCGなどのコンサルタントなのではないでしょうか。(岩崎 卓也)
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2007/08/25

自分らしさを出せるリーダー

2007年9月号に『「自分らしさ 」のリーダーシップ』という論稿が掲載されています。原題は「Discovering Your Authentic Leadership」です。Authenticについては直訳すると「本物志向」となりますが、より日本語として意味が近い「自分らしさ」という言葉で訳しました。

執筆者の第一の主張はリーダーは人の真似をしてはダメだということです。数年前のこと、経営者の中にはジャック・ウェルチになろうとしている人がたくさんいました。でも、リーダーシップにはいろいろな形があります。真似をしようとすると、どうしても表面的な部分を取り入れることになってしまいがちです。

傲慢とカリスマを混同することもあるでしょう。それが執務に反映されたとしたら部下は不幸です。人の真似をしようとすると、まずはその人の形から入ります。傲慢なところを真似て有名な経営者に近づいた気になってしまう。そこが怖いのです。

この論稿では〈偉大なリーダーを真似しても限界があるので、自分らしさを貫きなさい〉というメッセージを出しています。本論のなかでは触れていませんが、人は偉くなるとどうしても権限を使い、威張ることになりがちです。以前、弊誌でも別の論文で紹介しましたが、新米のリーダーは周りから権限を使っても良い、というメッセージをもらってから初めて権限を使えるのだと。簡単にいうと謙虚さが大事ということになります。さらにリーダーは自分らしさを忘れてはいけないということなのです。

この論稿では自分らしさを貫くリーダーへの成長ステップとして、これまでの自分史を振り返ることをすすめています。内省をするのは照れくさいものがありますが、日本人ならば座禅を組みながら自分と向き合うといったやり方が、一番良いのでしょうか。
自分を良く知り、自分らしさを出すことで、部下やパートナーの力を引き出し成果を出し続けられるリーダーになるのです。(岩崎 卓也)
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2007/08/22

お父さんのひざの上に座る意味

7月、元文化庁長官の河合隼雄先生が亡くなられました。私は何冊かご著書を拝読いたしましたが、教育に関する記述で印象に残ったものがあります。先生がおっしゃるには、子供が育つ上で子供を取り囲む環境には二種類あるといい、それは父性的なものと母性的なものだというのです。

かつての日本社会における家父長制の中で、「お父さん」は家の真ん中に腰をおろしていました。家には親戚やご近所、そして御用聞きなどが自由に出入りしていたものです。子供がお父さんのひざの上に座る姿はどの家庭でも珍しいことではなく、子供は父親がする大人たちの会話を耳にしていたものです。この時代の子供はさまざまな情報が入ってくるきわめてオープンなシステムの中で育ったわけです。他方、母親はクローズドシステム、守ってあげる愛で子供を抱え込むわけです。当時、両者のバランスはほどよくとれていました。

このような状況下、昭和の中くらいから日本の学校教育は知識偏重になっていきます。今振り返ると、それは間違いだったとは思えません。貧しい国から輸出立国に変わっていく上で必要なことだったのです。その反動でゆとり教育という別の方向に転換したわけですけれども。河合先生の書かれたものを読んでいていると、今の日本の教育で必要なことは父性と母性の二種類のバランスをはかるということなのではないか、と感じました。オープンシステム一方だけが強いと、世の中の風説を浴びる、ストレス耐性といった面で強くなる可能性はあります。その分、寛容性がなくなってしまうのです。

団塊ジュニア以降は母性が強くなっていきました。背景にあったものは核家族化と共働きということだと思います。だから都市部で顕著に出ているのです。親とふれあう時間が少なくなっているから、親は必要以上にわが子をかわいがってしまうケースも見られます。父性と母性のバランスはどの程度がベストかはわかりませんが、従来バランスしていたものと、今とでは明らかに違いがあります。母性の方に重きがあって、父性というのはなくなりつつあるといえます。

朝、8時過ぎに近所を歩いていると、「お子様のお通りです」みたいな様子で子供は学校に向かいます。横断歩道では用心棒のように、保護者や祖父母が立っているわけじゃないですか。要人が来たのか、というくらい子供を厚く保護しているわけです。外に出ることですら、このように慈しまれているわけですね。学校でも、家でも保護されて、これでいいのか保護しすぎなのではないか、と思うときがあります。

私が子供の頃、『放任主義』(羽仁進著)がベストセラーになりました。私は小学校のとき読んだ記憶があるのです。恐らく私の親が読んでいたのでしょう。どう考えても、この「放任主義」からは、今の家庭教育は遠くなっています。過保護な親、行き過ぎた世話焼き、この現状を見て、父性と母性のバランスが崩れているに違いないことを肌で感じました。(岩崎 卓也)
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2007/08/18

企業の存立とCSR

いつから企業にとって、事業と社会性が別のものになったのでしょうか。知らないうちに、カネを儲けることが事業になってしまったような気がします。そもそも、企業は社会に価値のあるものを提供するために、ひとりではできないことをみんなでやりましょう、ということでできたものです。これが株式会社や組織の成り立ちだったわけです。それなのに、いまでは事業と社会性が別々に議論されるようになってしまいました。企業に対してCSRを問うこと自体がおかしいな、と思うことがあります。

企業の責任は「まずは遵法義務だ」という言葉をよく耳にするようにもなりました。この「まずは」というのもおかしなことだと思うのです。なぜなら、あまりにも当たり前のことだからです。90年代、社会貢献という言葉が言われ始め浸透していくわけですが、そんなことは言われなければいけないのか、というところが悲しいですね。
組織が巨大化していくほど、ルールが必要になってくる。ルールが複雑になっていくと、知らないうちに大事なものを見失っていく。このようなジレンマが組織にはあるとは思います。そういった意味で、CSRを忘れずにいましょうというメッセージがもともとはあったと思います。それは間違いではないと思うのですが、原点を忘れて単なる寄付行為や慈善活動をすればいい、という形になってしまっている部分を目にすると、少し違うのではないかと感じました。もちろん、なかにはあえて区別をしておかないとやりきれないものもあります。例えば、身体障害者の雇用がそれにあたります。雇用を確保するには、別途CSRの看板を掲げる必要はあるのかもしれません。

今号の特集は『「脱」管理主義のリーダーシップ』です。人を動機付けることは、ふたつあると思います。衛生要因に注目するやり方がひとつ。そして、もうひとつはシグニチャー・エクスペリエンスと関連します。シグニチャー・エクスペリエンスは今号掲載の『「理想の職場」のつくり方』に記載されています。内容はそちらを参考にしていただくとして、最近は社会に対して手ごたえのある仕事をしたいという方が増えています。それに伴い、その企業の社会性が重視されてきているのです。このこと自体、そもそもの企業の存立の理由に疑問を投げかける要求だと感じました。今一度企業と社会性というものについて考える時なのではないか、と思った次第です。(岩崎 卓也)
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2007/08/14

リーダーは完璧になる必要はない

ピーター M.センゲという学者をご存知でしょうか。MIT スローン・スクール・オブ・マネジメントの上級講師で、「学習する組織」を提唱した人です。今月号の「完全なるリーダーはいらない」では執筆者の一人として寄稿し、〈リーダーを目指す人は完璧になる必要はないのだよ〉という心が温まるメッセージを発しています。
“Incomplete leader”という言葉を使い、完璧は現実的には不可能であると主張します。さらに、リーダーはまわりの人たちの協力を仰ぎながら、個人の技ではなく組織的にリーダーシップを構築することの大切さを示唆しています。

センゲが執筆陣に入っているだけあって、学習することによって組織能力を高めていくという発想が根底にあり、これが本論の特徴になっています。また、昔からMITの方たちは、組織はネットワークであり、情報というものがすべての関係を作っているという考え方をしています。
例えば、私が一緒に仕事をしている営業部門の人とのあいだには、「DHBR」担当者と編集者という関係があり、情報が交換されていきます。そこには先輩と後輩、そのほかいろいろな関係があるのです。そのなかで情報は変わって行きます。営業担当者のセクションが変わったときには、別の関係が生じ違う情報が行きかうことになるわけです。さらには、仕事の接点がなくなると関係がなくなることもあります。その関係というのは相手の役割によって情報が変わり、その時に態度も変わるという考え方をします。この論稿でも、情報と関係についてMITらしさを感じる部分があります。

本論がすすめているのは「完全なリーダーシップ」ではなく「分散型リーダーシップ」です。自分の足りないところを誰かに補ってもらう。と、同時に補ってもらう相手に自分の強みを発揮しましょうということが書かれています。相互依存型のリーダーシップスタイルというのが本当のリーダーの姿だということなのです。

ピーター M.センゲは「HBR」アメリカ本誌ではひんぱんに登場する学者ではありません。久しぶりにセンゲが出てきたということもあり、今月号のオススメとしてこの論稿を紹介させていただきました。(岩崎 卓也)
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2007/08/11

シグニチャー・エクスペリエンスと低い離職率

今月号の特集は「脱管理主義のリーダーシップ」です。そのなかに『「理想の職場」のつくり方』という論稿があります。ここで、ポイントとなる言葉は「シグニチャー・エクスペリエンス」です。まだ、日本語になっていないので今回の論稿では訳をつけていません。
この言葉の意味は、その組織ならではの、もっと言うとその組織でしか得られない業務経験を指します。

実は、シグニチャー・エクスペリエンスがちゃんとしている会社は離職率が低いのです。それは当然のことで、その組織ならではの経験があるから従業員にとってその職場が好きな場所であることを保証できる、適さない人材は採用に至らない、といったことが可能になるのです。結果として、自社に適した人材を採用できるのです。

この論稿は何をメッセージとして発しているのかというと、今、日本企業は多数の人材を採用しています。リクルーターは口にこそしませんが、ふるいをかけて残ればいいという本音が見え隠れします。規模を確保することで、最終的に残るであろう優秀な人材が10パーセント程度ならば良いといった発想があるように思われます。この考えに対する警鐘がこの論稿にはあるのです。

シグニチャー・エクスペリエンスを大切にしている会社は、採用した人数は少人数でもいいからそのうちの9割を残すという考え方をします。300人を採用して30人を残すのか、33人採って30人を残すのか。そういうことなのです。

事例としてホール・フーズ・マーケットという企業を取り上げています。この会社は日本にはまだありませんが、無農薬、健康志向の高い食材を扱っています。特徴的なのは従業員が採用に携わるのです。肉売り場から肉売り場で新しく働く人を採用し、チームの業績は個人の業績とリンクさせています。仲間になれないやつは採らない、といったやり方でもあるのです。

そのほか、本論ではゴールドマン・サックスの人材募集に関するシグニチャー・エクスペリエンスや、スターバックスの店舗でのOJTなど、具体的な事例の解説が掲載されています。
人材争奪戦が繰り広げられるなか、片っ端からかき集めるのが最良のやり方だとはいえません。シグニチャー・エクスペリエンスは採用に当たって何にポイントを置くのか、再考させてくれる新しい言葉だといえます。(岩崎 卓也)
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2007/08/08

コンピタンシーモデルでいいのか検討していますか

経営ツールや人事関連ツールなど、マネジメントのソフトウェアについていうと、自社に合うものと合わないものがあります。導入する場合、真剣に考え検討しないといけないと思います。現在、日本企業の多くにコンピタンシーモデルが入っています。本当に自分の会社がコンピタンシーモデルで良いのか、検討することが大切です。本当に必要性があるのか? という素朴な疑問を持つことが大事なのではないでしょうか。

クリエイティヴィティを開発しよう、と良くいわれています。でも、原子力発電所や飛行機メーカー、生命にかかわるような職場で、いたずらにクリエイティヴィティが開発されたらどうなるでしょうか。開発者が創造性を発揮して自由に製品を開発していったのなら、危険なことも起こります。このような職場ではクリエイティヴィティは必ずしも必要ではないのです。

パイロットはA地点からB地点に安全でかつ、快適に乗客を届けるということが大切な仕事です。わざわざ遠回りして、北極を見に行こう、というようなことはしなくていいのです。話はそれますが、そう考えると、「パイロットって単純労働的な要素がある割に、随分給料高いなぁ」と前々から思っていました。英語を流暢に話す必要もないし、計器類は自動操縦です。確かに、目が良くなくてはいけないといった肉体的な制約がある、さらには精神的にも肉体的にも大変、ということは聞いています。それでも、ちょっと給料が高すぎると感じているのは私だけでしょうか。もちろん、人命を預かっているということで、非常に責任のある仕事だということはわかります。自己管理などをしっかりしていることと思います。そういうことを含めると、高い給料が必要なのかもしれません。そのことはわかるのですが、どうも高いと感じてしまいます。

話を戻すと、警察官などに対して求められているクリエイティヴィティは、メーカーに求められているものと性質が異なります。しかし、企業によっては自社の事業や従業員の行っている職種を考慮しきれていないまま、言葉に惑わされて新しいツールなどを入れてしまいます。自社にそのツールが合っているのかどうかは重要なことだと思っています。(岩崎 卓也)
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2007/08/04

模索段階にあるナレッジワーカーの人事制度

近代社会で人事制度の多くはブルーカラーの管理をベースに作られてきました。そのためにホワイトカラーの、さらに翻ってナレッジワーカーの人事制度は、模索段階にいまだにあるだろうなと思うのです。
コンピタンシーで管理するというのは、その一つのツールなわけです。そのほか、カフェテリア・プランや異動のことを考えた401kだとか、人事ツールや福利厚生プログラムがいろいろと出てきました。これらが現状に合った形になっているのかというと、まだまだではないでしょうか。

人材に投資するということでGEといった企業の話が良く出てきます。サウスウエスト航空など、一部の進んだ企業があることは事実ですが、それらは特異なケースだといえます。
このような進んだ企業の事例が紹介される一方で、ホワイトカラーのサボタージュをどうやって止めるのかといった、現実に即した話はあまり議論されていません。メンタルヘルス問題についての決定打もない、ワーカーホリックの人をどう処遇するのか、そういうこともわかってないのです。
今のところブルーワーカーのような単純労働を前提にしているので、同じように均一的な労働をして、一人当たりもそんなに差が出ていないことが目に付きます。パフォーマンスに、ばらつきがない人たちを管理する仕組みの中で人事制度が依然として残っているのです。

ばらつきがない人たちを管理することが根幹にあるから、なかなか特異な人たちを処分し切れない。これも現実です。他方、日本はスターを排出するような仕組みを持たないからこそ強いんだという人もいるし、いやいや、これからはタレントタレントがいないと、ナレッジエコノミーで勝っていけないのですよ、という意見もあります。どちらも正しいと思います。一律に事務職の人は総合職よりも給料が安くてもいいのだ、という暴論はもう今の時代ではあてはまりません。

プロセスを再設定してその時に、もっと面白いことをやれるような人たち。これは昔からある議論ですが、こういう人たちは間接業務をやっているけれども、その中で、非常に高いバリューを出せるのです。こういう人をどう処分するのか、「間接部門だからあなたコストでしょ。コストのくせに、偉そうなこと言うなと」という言い方も一方であります。
いまだに解決ができてないのが人事の問題なのかな、という気がします。(岩崎 卓也)
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2007/08/01

村社会とすり合わせ型製品開発

私が若い頃、「三無主義」ということばがよく使われていました。無気力・無関心・無責任の3つの「無」の世代だという批判を若者が受けている時代があったのです。いつのときでも批判される対象は存在します。そのなかには、時代を経て評価が変わっていくものがあることも事実です。

従来からあるもので、今見直すべきものに、私は「村」があると思っています。村というコミュニティをもう一度見直してもいいのではないか、と私は思うときがあるのです。村社会はよろしくない、とする批判はあります。たしかに、村は排他的で一定の価値観が固定されていて、そこから発展しないという欠点があるのです。
でも、最近は必ずしも悪いところばかりではない、という気持ちになっています。まず、村社会のほうが長期的な思考になります。村というコミュニティはずっと続いていくわけですから。さらには、みんなで分け合おう、という気持ちが大変強いのが村の特徴です。
もちろん、村から出て都会で働きたいという人を批判してはいけません。出たいときはいつでも自由に出て行けるという自由な環境であることがひとつの前提としてあります。

インテグラルな製品、(以前こちらのブログで紹介したすり合わせ型の製品)を作るのならば、村という概念を再考したほうがいいのではないでしょうか。村は必要に応じて離合集散します。これはまさにプロジェクトというかたちをとって、村の組織を維持するのにあった考え方です。火災が生じたならば、それが自分の家から多少離れていても、村の人は現場に向かってバケツリレーで水を運ぶのです。このような点からも、リスクに対して強い側面を持っているといえます。

他方、モジュール型製品は都市型のほうが適しているのかも知れませんね。分業は取引コストを抑えるので、コストダウンにつながります。個人化が進むのはいたし方がないことですね。このような方式が向いているのは金融業でしょう。
すり合わせ型製品の開発は、資本主義でありながら社会主義である村社会で行われることに向いています。従って、今「村」というコミュニティの持つ良さをもう一度確かめるときではないかと思った次第です。(岩崎 卓也)
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